1976年、ファニア・オール・スターズが来日した。これが日本のサルサの夜明けだった。日本初のサルサバンド、オルケスタ・デル・ソルの初ライブが79年。日本サルサシーンが生まれたが、ブームには至らなかった。変化が起こったのは90年だった。半ば日本に見切りをつけ米国デビューを果たしたオルケスタ・デ・ラ・ルスがビルボード・ラテン・チャートにて11週連続No.1を獲得し、世界中で爆発的ブームを呼んだ。その人気が逆輸入され、日本でも人気となった。93年にはNHK紅白歌合戦にも出場、テレビを通じて全国のお茶の間にまでサルサが知れ渡った。彼等は、日本のファンがうまく踊れないのを見て、94年にはダンス教則ビデオの発売、サルサダンサーの招聘、さらに日本初のサルサダンスコンテストの開催と活発な活動をしている。その後、デラルスは97年に惜しくも解散するが、その意志は元メンバー達による数々のバンドに引き継がれている。
バブル期、豊かな日本を目指して世界中から外国人がやってきた。当然、ペルーやコロンビアなどのラテンアメリカからも。彼等は、慣れぬ異国での労働の疲れとストレスを、週末のサルサで発散していた。とはいえ、サルサスポットは当時数えるほどだった。92年、ドミニカ人アリス・ウレーニャが六本木のフィリピン料理店マニラ・マニラにて開催したサルサパーティが人気を呼び、彼は翌年サルサ・スダーダをオープンさせた。各地に同様の店ができた。どこも当初は外国人だらけであったが、徐々に彼等からラテンカルチャーを学び、サルサに親しむ日本人が増えていったのだ。
ラティーノ移民の多い街で広まったサルサダンスの流行は世界中に飛び火し、至る所にサルサバーやダンス教室ができた。日本も例外ではなかった。92年、海外でサルサにはまり帰国した東後昌弘と市川奈美は、日本ではまだサルサを踊れる人がほとんどいないことに気づき、相次いでサルサダンス教室を開いた。それまでラティーノの見よう見まねで踊っていた日本人のダンスは急速に上達した。また、同時に、日本人向けのダンス・パーティも数多く開催されるようになる。パーティは年々大きくなっていった。それに呼応するようにダンススクールも次々開講、96年からはダンスコンテストも開催され、ダンスを入り口にしたサルサファンは今も激増中である。
ところで、ここでキューバについても触れたい。92年の"ノーチェ・トロピカール"と93年の"キューバ国立民族舞踊団"の公演で、多くの人が優雅かつワイルドなリズムとダンスに魅了された。翌94年から4年にわたりワークショップ"フォルクーバ・ジャパン"が開催され、受講者はサルサのルーツであるキューバリズムを体得した。村上龍、コシノジュンコらキューバファンの影響もあり、キューバの音楽とダンスは着実に広まっていった。これにより、日本のサルサシーンはより広がりと深みを得ていると言えよう。
主に東京サルサシーンを例にとって振り返ってみたが、もちろん、各地方でも同様の現象が起こっているのはいうまでもない。あなたの街にはまだサルサがないって? 大丈夫、これからだよ。
(text by suda:1999/5)